[追悼]「南北朝鮮と日本に分かれた三兄弟…あの世では会えるように」(ハンギョレ新聞)



在日歴史学者・姜在彦先生を偲んで

 先月19日、日本の大阪で亡くなった歴史学者の姜在彦(カン・ジェオン)先生は在日同胞1世の長老学者であり、彼自身が分断の悲劇を体現した人物だった。1926年に済州(チェジュ)で生まれ済州農高を出た彼は、朝鮮戦争初期に日本へ密航し、大阪商科大学(現大阪市立大学)で経済学を勉強した後、朝鮮史研究に方向を変えた。1981年、京都大学で「朝鮮の開化思想」という論文で文学博士学位を取り、『近代朝鮮の思想』、『西洋と朝鮮』、『金日成神話の歴史的検証ー抗日パルチザンの「嘘」と「実」』など20冊あまりの著書を残した。58歳になってようやく京都の仏教系私立大学である花園大学の「嘱託教授」になったが、正式教授には任用されなかった。

 彼は非常勤講師を転々としながらも、1970年代序盤に関西地方において朝鮮史、朝鮮半島情勢に関心が多い日本人青年たちが作った「むくげの会」などと持続的に交流しながら、活発な講演活動を行った。むくげの会30周年を記念するための論文集として、2001年2月『新コリア百科―歴史・社会・経済・文化』が出版された。彼は序文で会の初期を回顧しながら、自らについて「すでに40代半ばのどこにも所属していない、いや、追い出された『一匹狼』だった」と記述した。朝鮮総聯傘下団体で働き、1960年代後半に金日成(キム・イルソン)唯一体制の確立と思想統制に反発して飛び出したのを遠回しに表現したのだ。

末弟のジェリュン氏も1カ月前に死去  
陸軍士官学校教授だったジェリュン氏、「アカの兄」との理由で  
「11期の同期」全斗煥勢力の攻勢で辞職  
20年後に弟の苦難を知り「衝撃」  
次男のジェギュ氏は朝鮮戦争中に行方不明に  
60年代に北朝鮮から手紙が届いたが途絶え

 彼が初めて韓国メディアに登場したのは1981年3月、『季刊三千里』を一緒に作った小説家の金達寿(キム・ダルス)、歴史学者の李進煕(イ・ジンヒ)とともに母国を訪問した時だ。光州(クァンジュ)抗争を流血鎮圧した新軍部の血なまぐささが消えていない頃なので、彼らの突然の入国は同胞社会と日本の知識人たちに大きな波紋を起こした。『火山島』の作家・金石範(キム・ソッポム)が彼らと決別宣言をしたのはその影響だ。

 「南と北の両方で歓迎されなくても、歴史的事実は動かせない」と主張した彼が、南・北・日本に分かれた家族史を明らかにしたのは、朝日新聞とのインタビュー(2010年6月30日分)においてだった。忠清北道清州(チョンジュ)のある高校で英語とドイツ語教師として働いていたときに朝鮮戦争が勃発し、同じ学校の在学生だった5歳年下の末弟ジェリュンを故郷の済州島に送ったと述べた。ソウルで大学に通っていた2歳下の弟ジェギュは行方不明になった。彼は、南で文民政権が誕生した1993年に、ジェリュンが陸軍士官学校の教授だったが兄のために追い出されたという記事を韓国雑誌で見て衝撃を受けたと話した。

 ジェリュンは陸軍士官学校11期で信望があり、同期会の集まりである北極星会の初代会長を務め、後輩たちにも影響力が大きかった。彼は普段、軍の政治的中立を守るべきだとして「青竹会」という会を作り、「運動にばかり関心があって遊び好きな」全斗煥(チョン・ドウファン)・盧泰愚(ノ・テウ)らの集まりを牽制した。すると「アカの兄がいる」という理由で全斗煥勢力の執拗な攻撃を受け、1970年に陸軍士官学校教授部から追い出され、中佐として除隊した。ジェリュンはこのショックで一時失明の危機にまで陥ったが、東国大学に移り人文学部の学部長まで務めた。

 二人の兄弟は今秋、そろって世を去った。ジェリュンが10月23日に息をひきとり、1カ月も経たず兄が追いかけていったのだ。戦争の時に消息が途絶えていたジェギュは、1960年に北朝鮮から兄に手紙を送って以来、かろうじて書信が続いていたが、内容は北朝鮮の指導者の礼賛ばかりだったという。この世で真の対話を交わすことのできなかった三兄弟が、あの世では忌憚なく話を交わしているだろうか。

キム・ヒョスン/元「ハンギョレ」先任記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)

【関連記事】


こんな記事もよく読まれています



コメントを残す